サーダート、敵国イスラエルの議会で和平を訴える

1977年、敵国イスラエルのクネセトで和平を訴えるエジプト大統領サーダートの歴史的な場面を描くアイキャッチ。 話題

1977年11月、エジプト大統領アンワル・サーダートは、建国以来エジプトと敵対していたイスラエルのエルサレムを訪問した。中東戦争を戦ってきた国の指導者が、イスラエル国会(クネセト)の演壇に立ち、和平を直接訴えたのである。ただし、サーダートがその場でイスラエルの要求を丸のみしたわけではない。

20日の演説で彼が求めたのは、1967年の戦争で占領された領土からの撤退と、パレスチナ人の将来を認めることだった。敵国の議会で和平を呼びかけながら、譲れない条件も同じ演壇から突きつけた訪問だった。


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基本プロフィール

項目 内容
出来事 サーダートのエルサレム訪問。1977年11月19〜21日
訪問者 アンワル・サーダート。エジプト大統領(在任1970〜1981年)
相手 メナヘム・ベギン首相とイスラエル政府
異例だった点 アラブ諸国の現職首脳として初めてイスラエルを公式訪問し、クネセトで演説
演説の日 1977年11月20日。アラビア語で和平と領土問題を訴えた
その後 1978年のキャンプ・デービッド合意、1979年のエジプト・イスラエル平和条約へ続いた
先に結論
サーダートの訪問は、敵国の議会で直接対話を始めた政治的賭けだった。和平条約を即日成立させた訪問ではないが、エジプトとイスラエルが第三国経由ではなく交渉する流れを作った。

なぜエルサレムへ行ったのか:停滞した和平交渉を一人で動かす

1973年の第四次中東戦争後、エジプトとイスラエルの間では外交の動きが始まっていた。しかし、どこから撤退するのか、パレスチナ人を交渉にどう参加させるのか、エルサレムをどう扱うのかで合意は遠かった。アメリカの仲介も、国際会議を開く枠組みから先へ進みにくい状態だった。

サーダートは11月9日、和平のためならエルサレムへ行く用意があると表明した。イスラエルのベギン首相は招待を送り、サーダートは19日夜にベン・グリオン空港へ到着した。米国務省の記録では、これは1948年のイスラエル建国後、アラブ諸国の首脳による初のイスラエル訪問だった。

「電撃訪問」だが、思いつきではない
ベギンの招待、アメリカの仲介、エジプト側の準備が重なって実現した。米国務省文書には、サーダートが訪問前から「大胆な新しいイニシアチブ」を考えていたとする記録もある。

クネセト演説:和平の手を出しながら、撤退も要求した

イスラエル国会の演壇で、和平と占領地返還の両方を訴えるサーダートを描く本文挿絵。

20日、サーダートはクネセトでアラビア語の演説を行った。彼はイスラエルの人々に対し、平和を築くために来たと語り、イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒が同じ土地で暮らす現実にも触れた。演説の見た目は融和的だったが、内容は一方的な降伏宣言ではなかった。

サーダートは、1967年の第三次中東戦争でイスラエルが占領した領土からの撤退を求め、パレスチナ人が自分たちの将来を持つべきだと訴えた。つまり「和平を認めるから、占領地を返せ」という交換条件を、イスラエルの国会で明示したのである。

サーダートが示したもの 同時に求めたもの
イスラエルとの直接対話 1967年以降の占領地からの撤退
戦争を終わらせる意思 パレスチナ人の権利と将来への配慮

成果:敵同士の「直接対話」を既成事実にした

訪問は、エジプトとイスラエルの間に残る問題を消したわけではない。実際、サーダートとベギンはエルサレム訪問後も、領土・パレスチナ・エルサレムをめぐって意見が一致しなかった。米国務省の記録にも、双方が率直に話し合いながら、重要な相違を理解していたことが残っている。

それでも政治の作法は変わった。それまで第三国や国際会議を通すしかなかった敵同士が、首脳会談と国会演説を通じて直接やり合ったからだ。国連の1977年年鑑も、訪問が対話の開始として受け止められ、包括的な和平交渉への道を開くことが期待されたと記録している。

その場で成立したもの/しなかったもの
成立したのは、首脳同士が直接交渉を続ける政治的な前提。成立しなかったのは、領土返還やパレスチナ問題を含む最終和平の合意だった。翌年、カーター米大統領の仲介でキャンプ・デービッド合意に進み、平和条約は1979年に結ばれた。

現代につながる意味:象徴的な一歩だけでは和平にならない

サーダートの訪問が歴史に残るのは、敵国を「認めた」からだけではない。自国側にもイスラエル側にも反発があるなかで、相手の議会に入り、和平の言葉と自国の要求を同時に述べたからだ。訪問は勇気の物語として語られる一方、交渉では象徴の後に具体的な条件を詰める必要があることも示した。

なお、「この訪問だけでエジプトとイスラエルが和平した」という説明は正確ではない。確認できるのは、訪問が直接交渉の勢いを作り、1978年の合意と1979年の条約につながる重要な転機になったことまでである。細部の交渉やパレスチナ問題の扱いまで解決したわけではなかった。

日付 確認できる出来事
1977年11月9日 サーダートがエルサレム訪問の用意を表明
11月19〜21日 イスラエルを訪問。20日にクネセト演説
1978年9月 キャンプ・デービッド合意
1979年3月 エジプト・イスラエル平和条約

💀 サーダート、敵国の議会で和平を訴える

エジプト大統領が、戦争相手イスラエルの国会へ乗り込んだ。しかも「仲良くしましょう」だけではなく、占領地を返せ、パレスチナ人の将来を認めろと要求した。和平の握手をしながら、条件表も相手の演壇に置いていったのである。

サーダートのエルサレム訪問は、和平条約そのものではない。だが、敵を遠くから非難する外交をやめ、敵国の議会で直接交渉を始めた一手だった。

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