暗殺部隊に187発撃たれて「射撃が下手だな」と言った男

話題

1962年8月22日夕刻、パリ南郊プティ=クラマールの薄暗い交差点。雨で濡れたアスファルトを切り裂くように、機関銃の激しい連射音が響き渡った。

フランス第5共和政初代大統領シャルル・ド・ゴール(1890〜1970)と妻イヴォンヌを乗せた大統領専用車シトロエンDSに向け、待ち伏せしていた暗殺部隊が一斉に187発もの弾丸を撃ち込んだのだ。

ガラスは粉々に砕け散り、車体には14発が直撃、前後のタイヤ2本がパンクした。だが、ド・ゴールは身をかがめるどころか、後部座席で背筋を伸ばしたまま微動だにしなかった。そして脱出後、粉々になった窓ガラスの破片をコートから払い落としながら、護衛たちに平然と言い放った。「あいつらはまるで豚のように撃ちおった(射撃が下手くそだな)」。

暗殺未遂30回以上を生き延び、第二次世界大戦で祖国が降伏する中で勝手に「フランスの主権」を名乗って大英帝国とアメリカ大統領を手玉に取り、戦後は米国のドル覇権に「金塊を返せ」と殴り込みをかけてブレトンウッズ体制を揺るがした男。「偉大なるフランス」という狂気じみた自負心だけで超大国を振り回した怪物の正体を、エピソードで解剖する。


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基本プロフィール

項目 内容
本名 シャルル・アンドレ・ジョゼフ・マリ・ド・ゴール(Charles André Joseph Marie de Gaulle)
生没年 1890年11月22日〜1970年11月9日(79歳没・大動脈瘤破裂)
出自・体格 リール出身。名門カトリック貴族の家系。身長196cmの巨躯と巨大な鼻がトレードマーク
軍歴 サン・シール陸軍士官学校卒。第一次大戦で捕虜(脱走未遂5回) → 機甲師団提唱者 → 准将(1940年)
主な公職 自由フランス指導者(1940〜1944年) → 臨時政府主席(1944〜1946年) → 第5共和政初代大統領(1959〜1969年)
主な異名 ル・グラン・シャルル(偉大なシャルル)/高慢なジャンヌ・ダルク(米英首脳の陰口)

伝説①:暗殺部隊に187発撃たれて「豚の射撃だな」——シトロエンDSで死線を脱出したプティ=クラマール事件

ド・ゴールの生涯において、最も映画じみた瞬間が1962年の「プティ=クラマール事件」である。

当時、アルジェリア戦争を泥沼から救うためアルジェリアの独立を容認したド・ゴールに対し、フランス軍内の極右将校や入植者たちは激昂。「秘密軍事組織(OAS)」を結成し、国家元首の暗殺を公然と計画した。

1962年8月22日、ジャン=マリ・バスティアン=ティリー中佐率いる暗殺部隊12名が、エリゼ宮からオルリー空港へ向かう大統領の専用車列をプティ=クラマールの交差点で待ち伏せた。

夕闇の中、大統領の車が通過した瞬間、草むらに潜んでいた狙撃手たちが自動小銃と機関銃で一斉射撃を開始。187発もの弾丸が浴びせられ、14発が車体を貫通、リアガラスは粉々に砕け散った。

「あいつらはまるで豚のように撃ちおった(射撃が下手くそだな)」

同乗していた娘婿の警護官が叫んだ。「伏せてください!」。だがド・ゴールは姿勢を崩さず、妻イヴォンヌの安全を手で確かめただけだった。

暗殺部隊に187発撃たれながらも疾走するシトロエンDSとド・ゴールのイメージ
187発の猛烈な銃撃を浴びながらも、ハイドロニューマチック・サスペンションで脱出したシトロエンDS(イメージイラスト)

大統領夫妻が無傷で生還できた最大の立役者は、名車「シトロエンDS19」の驚異的なメカニズムだった。前後のタイヤ2本が撃ち抜かれパンクしたにもかかわらず、独自のハイドロニューマチック(油気圧)サスペンションが車体の水平を奇跡的に維持し、濡れた路面を時速100km以上で滑るように疾走して包囲網を突破したのだ。

この生還劇により、ド・ゴールはシトロエン社に生涯感謝し、後に同社がフィアットに買収されそうになった際には国家主権を理由に介入して阻止したほどだった。

補足:傑作サスペンス『ジャッカルの日』の原点
プティ=クラマール事件の首謀者バスティアン=ティリー中佐は逮捕され、軍事法廷で死刑判決を受けて銃殺された(フランス史上最後の銃殺刑執行者の一人)。この事件の失敗に絶望したOASが「冷酷なプロの外国人暗殺者を雇ったらどうなるか」という設定で書かれたのが、フレデリック・フォーサイスの世界的ベストセラー小説『ジャッカルの日』である。

伝説②:勝手に「自由フランス」を名乗り、チャーチルとルーズベルトを激怒させた傲慢

ド・ゴールの政治的経歴の始まりは、およそ一国の指導者とは思えないほど無謀で身勝手なものだった。

1940年6月、ナチス・ドイツの電撃戦によってフランス陸軍は壊滅。ペタン元帥率いる政府が降伏を決断する中、国防次官に抜擢されたばかりの一介の臨時准将にすぎなかったド・ゴールは、わずかな側近とともにイギリスへ亡命した。

金もなければ兵力もない。だが彼はロンドンのBBCラジオ局に乗り込み、全フランス国民に向けて伝説の演説を放った。

「フランスは戦闘に敗れただけで、戦争に敗れたのではない!」

そして何の手続きも経ずに、自らを代表とする「自由フランス」の樹立を宣言。本国のヴィシー政権からは「国家反逆罪」として欠席裁判で死刑判決を言い渡されたが、ド・ゴールは鼻で笑った。

凄まじいのは、亡命先の居候の身でありながら、英国のチャーチル首相や米国のルーズベルト大統領に対しても一切頭を下げなかったことだ。自らを「主権国家フランスそのもの」と位置づけ、対等以上の態度を要求し続けた。

ルーズベルトはド・ゴールの傲慢さに腸が煮えくり返り、側近にこう愚痴をこぼしている。

「ド・ゴールという男は誇大妄想狂だ。自分をジャンヌ・ダルクか何かだと思い込んでいる」

チャーチルの特使だったエドワード・スピアーズ准将は、「私が背負った十字架の中で、最大のものはロレーヌ十字(自由フランスのシンボル)だった」と述べたとされる。チャーチルの言葉として広まったこの表現は、実際にはスピアーズの発言として紹介されている。だが、この異常なまでの居直りとプライドこそが、敗戦国として脱落しかけたフランスを救うことになる。

数字で見る居直り外交の成果:ゼロから「戦勝国・安保理常任理事国」への横滑り
開戦当初、自由フランスが直接指揮できた兵力はわずか7,000人足らず(ほとんどがロンドンにいた孤立部隊)。しかしド・ゴールはアフリカ植民地の合流を取りまとめ、ノルマンディー上陸後はパリ解放を主導。米英ソの首脳会談(ヤルタ会談)から締め出されたにもかかわらず、終戦時にはドイツ占領区域の一角を確保し、国連安全保障理事会の「5大常任理事国(拒否権保有国)」の座を強奪同然で手に入れた。

伝説③:米国のドル覇権に「金(ゴールド)を返せ」と殴り込み、ニクソン・ショックを呼び寄せた男

戦後の1958年、アルジェリア危機の混乱で第4共和政が機能不全に陥ると、国民は「救国の英雄」ド・ゴールを大統領として呼び戻した。大統領権限を大幅に強化した第5共和政を創設したド・ゴールが牙を剥いたのは、西側世界の盟主アメリカだった。

1960年代、ブレトンウッズ体制のもとで米ドルは「金1オンス=35ドル」の兌換を保証し、世界の基軸通貨として君臨していた。しかしアメリカがベトナム戦争の戦費調達などでドルを乱発していることを見抜いたド・ゴールは、1965年2月の記者会見で強烈な爆弾発言を放った。

「金には国境もなければ、イデオロギーもない。金こそが不変の価値である。我々はドルではなく、金本位制に戻るべきだ」

ド・ゴールは言葉だけに終わらなかった。フランスの中央銀行が保有していた外貨準備のドル紙幣を、アメリカ連邦準備制度(FRB)の窓口に突きつけ、条約通りの「現物金塊への引き換え」を連続して実行させたのだ。

フランスが先鞭をつけた金への交換要求は他国にも飛び火し、米国の金準備は猛烈な勢いで流出。この「金戦争」に耐えかねたニクソン大統領が1971年8月に放ったのが、ドルと金との交換停止を宣言した「ニクソン・ショック」である。ド・ゴールは死後、米国の通貨覇権の根幹を崩壊させる引き金を引いた指導者として歴史に刻まれた。

補足:ネットで流布する「軍艦で金塊を回収した」伝説の真相
投資本やネット言論では「ド・ゴールが米国のニューヨーク港にフランス海軍の巡洋艦や駆逐艦を横付けさせ、金塊を満載して持ち帰った」というドラマチックな話が頻繁に語られる。しかし歴史調査によれば、当時の金塊輸送は通常の民間貨物船や航空機、あるいは連邦準備銀行地下金庫内での名義書換で行われており、海軍艦艇が金塊を運んだ公的記録は存在しない。ド・ゴール退任後の1971年直前の動きと混同された伝説だが、それほどまでに当時のフランスの対米姿勢が強烈だった証拠でもある。
対決局面 勝敗 結末と歴史的影響
1940〜44年 自由フランス運動 🟢 完勝 米英の傀儡化を拒絶。独力で臨時政府を確立し、安保理常任理事国入りを勝ち取る
1962年 アルジェリア独立容認 🟢 政治的勝利 軍内反乱と30回以上の暗殺未遂を乗り越え、エビアン協定で植民地戦争を終結
1965〜71年 ドル金交換戦争 🟢 構造破壊 ドルの過剰発行を突いて金を引き出し、1971年のニクソン・ショック(兌換停止)へ追い込む
1969年 地方行政改革レファレンダム 🔴 敗北・辞任 五月危機後の国民投票で否決(反対52.4%)。信任を失ったとして即日大統領を辞任

謎/構造:なぜ核武装してNATO軍事機構を脱退し、欧州を米国から引き剥がそうとしたのか

ド・ゴールの外交・安全保障思想は「ド・ゴール主義(ゴーリズム)」と呼ばれる。その根本にあるのは、「自国の防衛を他国に委ねる国家は、国家とは呼べない」という冷徹極まりないリアリズムだった。

1960年代初頭、米国はNATOの核戦略を自らの独占下に置こうとしていた。これに対しド・ゴールは、ケネディ大統領らに向かって国際政治の本質を突く恐るべき問いを突きつけた。

「アメリカは、パリを守るために本当にニューヨークを犠牲にできるのか?」

ソ連の核ミサイルがアメリカ本土に届く時代において、欧州が攻撃された際に米大統領が自国の壊滅を賭けて核報復を行ってくれる保証などどこにもない。同盟国の「核の傘」を信じることの愚かさを見抜いたド・ゴールは、フランス独自の核開発(フォース・ド・フラップ)を強行した。

そして1966年、ド・ゴールは全世界を震撼させる電撃決定を下す。フランス軍をNATOの統合軍事機構から完全に離脱させ、フランス国内に駐留していた米軍基地とNATO司令部を国外へ退去させたのだ。

数字で見るド・ゴール主義の徹底ぶり
・1960年:サハラ砂漠でフランス初の原爆実験「ジェルボアーズ・ブルー」成功(世界4番目の核保有国)
・1966年:NATO軍事機構からの離脱表明。フランス国内の米軍関係者約2万6,000人および基地施設を即座に国外退去
・英国のEC(欧州共同体)加盟を2度拒否(1963年・1967年):「英国はアメリカのトロイの木馬であり、欧州を大西洋同盟に従属させる」として頑として拒絶

ド・ゴールにとって、欧州とは「ウラル山脈から大西洋まで」の自立した共同体でなければならなかった。米国の属国になることを拒否し、自前の核兵器と独自の外交権を握ることこそが、中堅国家フランスが世界大国として生き残る唯一の道だった。

現在地:マクロンの「戦略的自律」と欧州独自防衛——死後半世紀を経て蘇るド・ゴール主義

1969年4月、自ら仕掛けた地方制度改革の国民投票に敗北すると、ド・ゴールは一切の言い訳をせず即座に辞任。故郷コロンベ=レ=ドゥ=ゼグリーズの自宅に引きこもり、回想録の執筆に没頭した。

1970年11月9日、テレビのニュースを見ながらトランプ遊びをしていた最中に突然倒れ、79歳で息を引き取った。遺言に従い、国葬は辞退され、歴代大統領や外国元首の参列も禁じられた。故郷の小さな墓地には、粗末な木製の十字架が立てられただけだった。

だが、彼が築いた「第5共和政の制度」と「ド・ゴール主義」の遺伝子は、2026年現在の国際政治において再び凄まじい現実味を帯びて復活している。

✅ マクロン政権下の「戦略的自律(Strategic Autonomy)」:米国の中東・アジア回帰やNATO関与への不透明感を受け、マクロン大統領は欧州が自らの安全保障を米国のみに依存しない体制づくりを主導。2026年3月にはフランスの核抑止力を欧州の同盟国全体に拡大する「前方抑止(Forward Deterrence)」の議論を提唱した
⚠️ 欧州防衛の自立と亀裂:防衛装備品の「欧州製調達」を優先するフランスに対し、依然として米国のパトリオットやF-35に頼りたいドイツや東欧諸国との間で深刻な路線対立が継続中
⚠️ 国内政治における「ゴーリズムの奪い合い」:現在のフランス政界では、中道与党マクロン派から極右「国民連合(ル・ペン派)」、左派ブロックに至るまで、全陣営が自らこそ「真のド・ゴールの後継者」を自称する奇妙な現象が定着している

「アメリカは本当に同盟国のために血を流すのか?」——ド・ゴールが半世紀前に突きつけた冷酷な問いは、2020年代の多極化する世界において、いかなる同盟理論よりも鋭い警告として世界中に突き刺さっている。

出典: Wikipedia「Charles de Gaulle」/フランス外務省外交白書資料

💀 シャルル・ド・ゴールが示す生存の「仕様書」

敗戦と占領のどん底から単身ロンドンに渡り、大英帝国とアメリカを相手に主権を主張し続けたシャルル・ド・ゴール。

その異常なまでの生存戦略の極意は、①手札が何もないときこそ自らを「国家の具現」と位置づけて絶対に頭を下げない居直り力 ②暗殺の凶弾が飛び交おうと一切の動揺を見せず恐怖を無力化する怪物的な胆力 ③同盟国の善意や傘を最初から信用せず独自の牙(核・金・軍事機構)を握り切る冷徹なリアリズムの3点に集約される。

他人の傘の下で雨宿りをする者は、持ち主が傘を閉じた瞬間に濡れ鼠になる——187発の弾丸を浴びながら「豚の射撃だ」と笑い飛ばし、超大国の庇護を蹴り飛ばして自前の核と通貨を握ったこの孤高の巨人の生涯は、真の独立とは他者への配慮ではなく、冷酷なまでに自立した実力を備えることでのみ勝ち取れるという国家生存の冷たい真理を語り続けている。

出典: Wikipedia「シャルル・ド・ゴール」「ド・ゴール主義」「プティ=クラマール事件」「ニクソン・ショック」「自由フランス」/ウィンストン・チャーチル著『第二次世界大戦回顧録』/フレデリック・フォーサイス著『ジャッカルの日』ほか各種報道資料。記事内イラストは生成画像(イメージ)。

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