全斗煥(チョン・ドゥファン、1931〜2021年)は、韓国軍の将軍からクーデターで権力を握り、1980〜1988年に第11・12代大統領を務めた人物である。1980年5月の光州民主化運動では、戒厳軍による弾圧を指揮した側の最高権力者となった。
退任後、12・12軍事反乱と5・18事件などをめぐって死刑判決を受け、のちに無期懲役へ減刑された。全斗煥とは、軍事クーデターで大統領になり、民主化運動の弾圧で法廷に戻された大統領である。
基本プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 全斗煥(チョン・ドゥファン) |
| 生没年 | 1931年1月18日〜2021年11月23日 |
| 出身 | 慶尚南道陜川郡 |
| 大統領 | 第11・12代(1980〜1988年) |
| 権力基盤 | 陸軍士官学校出身の軍人、保安司令部・新軍部 |
| 晩年 | 1997年に特赦。2021年、光州事件の責任と回顧録をめぐる争いを残して死去 |
伝説①:朴正熙暗殺後の混乱で、軍の実権を奪った
1979年10月、朴正熙大統領が側近に暗殺されると、韓国の権力中枢は揺れた。その年の12月12日、当時の保安司令官だった全斗煥は、陸軍参謀総長らを拘束する軍事反乱を起こし、軍の指揮権を事実上握った。
大統領代行の崔圭夏がいたにもかかわらず、国家の重要な決定は新軍部を無視して進められなくなった。全斗煥は中央情報部長代理を兼ね、反対勢力の監視と政界再編を進めた。
韓国大法院は1997年、正規の逮捕手続きを経ずに陸軍参謀総長を拘束した行為などを軍事反乱と認定した。後年の裁判で、権力掌握の出発点が法的に争われた理由はここにある。
伝説②:光州の市民蜂起を戒厳軍で封じた
1980年5月、戒厳令の拡大と政治活動の制限に反対する学生・市民の抗議が光州で広がった。戒厳軍はデモを武力で鎮圧し、市街地では市民と兵士の衝突、銃撃、逮捕が続いた。
全斗煥本人が光州の現場で銃を撃ったわけではない。しかし当時の保安司令官として新軍部の中心におり、裁判では12・12軍事反乱と5・18事件の責任を負う立場とされた。光州民主化運動は、後の韓国民主化を支える記憶になった。
1997年の大法院判決は、5・18事件を内乱および内乱目的殺人と認定し、全斗煥を内乱首魁などとして処罰した。犠牲者数の集計には資料上の区分があるため、数字を一つに固定せず、裁判・公的アーカイブの記録を参照する必要がある。
伝説③:軍人から大統領へ、そして民主化で退場した
崔圭夏大統領が退陣した後、全斗煥は統一主体国民会議の選出で第11代大統領となり、翌年の第12代大統領就任を経て第五共和国を発足させた。政権は報道・政治活動を統制しながら、1980年代の経済成長とスポーツ外交を成果として掲げた。
しかし1987年、学生運動と市民の大規模な民主化要求が政権を追い詰めた。全斗煥政権は大統領直接選挙を含む改憲を受け入れ、同年の選挙で後継候補の盧泰愚が当選した。全斗煥は退任後、軍事政権の終わりとともに権力の中心から離れた。
経済成長/国際スポーツ大会/制度上の第五共和国
軍事クーデター/政治弾圧/光州での国家暴力
謎・評価が割れる点:経済成長は弾圧を相殺するのか
全斗煥政権を評価する側は、1980年代の経済安定や国際的な存在感を挙げる。一方、政権成立の過程と光州での弾圧を切り離せないと見る側は、経済指標だけで軍事独裁を正当化できないとする。韓国で評価が割れるのは、成果と権力獲得の違法性を同じ物差しで測れないからである。
また、本人は回顧録で光州事件への関与やヘリコプター射撃を否定した。しかし2026年2月、韓国最高裁は回顧録をめぐる遺族らへの損害賠償責任を確定させ、北朝鮮軍介入説や射撃否定などを客観的根拠のない虚偽と判断したと聯合ニュースが報じた。
政策の結果を評価する議論と、クーデター・内乱・市民弾圧について裁判所が認定した責任は、別の論点である。前者を語っても、後者の判決が消えるわけではない。
現在地:死後も光州の記憶から逃れられない
1996年、第一審で全斗煥は死刑判決を受け、控訴審で無期懲役となった。1997年4月、大法院が判決を確定させた後、同年12月に特赦で釈放された。法的な処罰を受けた一方、本人は責任の認め方をめぐって批判され続けた。
全斗煥は2021年11月23日に死去した。2026年時点で本人は存命ではないが、回顧録の記述をめぐる裁判が続き、光州事件の責任をどう記憶するかという問題は終わっていない。
本人は死去している。残る争点は「どの判決を受けたか」だけではなく、国家が市民に向けた暴力の責任を、回顧録・記念館・裁判記録でどう保存するかである。
💀まとめ:クーデターで頂点に立ち、判決で権力を失った

全斗煥は、朴正熙暗殺後の混乱を利用して軍の実権を握り、光州民主化運動を戒厳軍で弾圧した。その後、大統領として国家を統治したが、民主化の波に退場を迫られ、最終的には軍事反乱と内乱をめぐる有罪判決を受けた。
全斗煥の経歴で最も重い一点は、軍人が大統領になったことではない。市民を弾圧して得た権力が、後の裁判で国家犯罪として裁かれたことである。




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