暗殺未遂の回数は638回——これはギネスワールドレコードに認定された数字だ。CIA(米中央情報局)が50年以上にわたって爆発物入り葉巻、毒入りコールドクリーム、サメを使った水中攻撃まで試みた相手が、フィデル・カストロ(Fidel Castro、1926-2016)である。
超大国アメリカと90マイル(約145km)の目と鼻の先に「社会主義国家」を打ち立て、核戦争一歩手前まで世界を引きずり込み、それでも冷戦終結後も体制を守り続け、90歳で天寿を全うした。ケネディも、ジョンソンも、ニクソンも、フォードも、カーターも、レーガンも、ブッシュ父も、クリントンも、ブッシュ子も、オバマも——カストロは10人のアメリカ大統領より長生きした。
基本プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Alejandro Castro Ruz) |
| 生年月日 | 1926年8月13日(キューバ・ビラン生まれ) |
| 出自 | スペイン移民出身の裕福なサトウキビ農場主アンヘル・カストロの非嫡出子。ユナイテッド・フルーツ社が支配する地域で育つ |
| 学歴 | イエズス会系学校→ハバナ大学法学部(1945年入学)。在学中から革命運動に参加 |
| 経歴 | 弁護士→革命家→キューバ首相(1959-1976)→国家評議会議長(1976-2008)→引退(弟ラウルへ移譲) |
| 記録 | 暗殺未遂638回(ギネス記録)。49年間にわたりキューバを統治 |
| 死亡 | 2016年11月25日、90歳。遺言により火葬・公共施設への名前使用を拒否 |
伝説①:暗殺未遂638回——CIAが本気で試みた奇策の数々
カストロへの暗殺計画の記録は、1975年に米国上院が設置したチャーチ委員会が公式に調査した8件が「確認分」として知られる。だがキューバ側の記録は桁違いで、キューバ情報局の元長官ファビアン・エスカランテは634件の謀略を文書化した。これがギネスブックに「638件」として登録されたのは2011年のことだ(複数のカウント方法による差異がある)。
| 作戦名・内容 | 手口 |
|---|---|
| 爆発物入り葉巻 | 愛用の葉巻に爆薬を仕込む計画。実行前に発覚 |
| 元恋人による毒薬作戦 | 1959年に知り合った元恋人マリタ・ローレンツをCIAが工作員に仕立て、毒薬入りコールドクリームの瓶をカストロの部屋に持ち込ませようとした。瓶はコールドクリームの中で溶け、失敗 |
| チョコミルク毒殺(1963年) | ハバナ・リブレホテルのカフェに工作員を潜入させ、カストロのチョコレートミルクシェイクに毒薬カプセルを投入する計画。毒薬カプセルが冷凍庫に貼り付いて取り出せず、失敗 |
| サメ攻撃 | カストロのスキューバダイビングを利用し、爆発物を仕込んだ貝をサンゴ礁に置く計画。カストロが潜る前に海流で流された |
| 化学物質で脱毛 | ひげを落とすことで「革命家カリスマ」のイメージを崩す作戦。靴に除毛剤を塗ろうとした。計画は実行されず |
アメリカが暗殺に失敗し続けた最大の理由は、CIAの計画がことごとく事前に漏れていたことだ。キューバの情報機関は、CIA工作員の採用段階から二重スパイを送り込んでいたとされる。カストロ自身も「自分が暗殺される前に自分の敵を知り尽くすことが最大の防御だ」と語っている。
伝説②:「歴史は私を無罪とするだろう」——農場主の息子が革命家になるまで
フィデル・カストロは1926年、キューバ東部オリエンテ州ビランで生まれた。父アンヘル・カストロはスペイン移民出身のサトウキビ農場主で、米国企業ユナイテッド・フルーツ社が支配する地域で土地を広げた成功者だった。フィデルはその非嫡出子として生まれ、正式な婚外子という出自が後年の「体制への反逆」に影響したとも言われる。
ハバナ大学法学部に進んだカストロは、キャンパスで学生政治運動に関わるうちに急進的な左翼思想に染まっていく。1947年にはドミニカ共和国のトルヒーリョ独裁政権を打倒しようとした亡命キューバ人の武装遠征に参加した(作戦中止で実行されず)。1953年、カストロはわずか160人の仲間とともに、バティスタ独裁政権軍の拠点モンカダ兵営を奇襲した。作戦は失敗し、仲間の大半が殺され、カストロは逮捕された。
裁判でカストロは、バティスタ政権の残虐性と社会的不正義を4時間にわたって演説し、自らの弁護書面とした。「歴史は私を無罪とするだろう」という末尾の一文はキューバ革命のスローガンとなり、後に独房で密かに書き写されてキューバ全土に拡散された。判決は懲役15年だったが、バティスタはその後の政治的圧力で1955年に恩赦を出した。
メキシコに亡命したカストロはそこでアルゼンチン人医師チェ・ゲバラと出会い、意気投合する。1956年11月、カストロら82人はボロ船「グランマ号」でキューバ上陸を試みたが、バティスタ軍の待ち伏せに遭い、大半が戦死。生き残ったのは12〜20人とされ、カストロ自身はシエラ・マエストラ山脈に逃げ込んで2年間のゲリラ戦を開始した。この逆境が「物語」を生み、農民の支持を集める基盤となった。
1959年1月1日、バティスタは逃亡し、カストロ率いる反乱軍が首都ハバナに入城。キューバ革命が成就した。カストロは32歳だった。
🚢 伝説③:ピッグス湾とミサイル危機——「アメリカに2度勝った男」
キューバ革命後、カストロ政権はアメリカ企業の資産を国有化し、ソ連との接近を深めた。ケネディ政権は1961年4月、CIAが訓練した亡命キューバ人1,400人をピッグス湾(コチーノス湾)に上陸させてカストロ打倒を狙った。だが作戦は開始からわずか72時間で壊滅。カストロ軍が圧倒的速さで封じ込め、1,189人が捕虜となった。この失敗はケネディ政権の外交的大失点となり、カストロの権威を国内外で高める結果を招いた。

翌1962年10月、今度はカストロがソ連にミサイル基地の設置を要請したことで「キューバ危機」が勃発する。ケネディとフルシチョフの直接交渉で核戦争は回避されたが、交渉でカストロはほぼ蚊帳の外に置かれた。フルシチョフが「キューバへの不侵攻保証と引き換えにミサイルを撤去する」とケネディに約束したとき、カストロは激怒した。自分の国のことをアメリカとソ連の二大大国が勝手に決めたのだ。
1962年10月16〜28日、アメリカがキューバのソ連ミサイル基地の航空写真を入手してから、海上封鎖、ソ連船との対峙、核弾頭付き潜水艦の接近まで13日間。ソ連の潜水艦B-59内部では、アメリカの爆雷攻撃を受けて艦長が核魚雷の発射ボタンに手をかけた。「発射には艦長・副長・政治将校の3者合意が必要」というルールがあり、政治将校のヴァシリ・アルヒーポフが拒否したことで核戦争は回避されたとされる(出典: Thomas Blanton, National Security Archive, 2002年)。
謎:チェ・ゲバラを「送り出した」のか「追い出した」のか
革命を共に闘った盟友チェ・ゲバラ(アルゼンチン人医師・1928-1967)は、革命後のキューバでキューバ国立銀行総裁、工業大臣という要職を歴任した。しかし1965年4月、ゲバラはカストロに宛てた訣別の手紙を残してキューバを去った。
「私はキューバ指導部内での職責をすべて放棄し、党内の地位、大臣の職、司令官の地位、そしてキューバ市民権も放棄する。(中略)他の地の地に(革命の)意志を伝えるために」
— 1965年4月1日付カストロ宛訣別書(カストロが1965年10月に公開)
ゲバラはその後、コンゴでの革命支援(1965-66)に失敗し、次いでボリビアで農民ゲリラ組織を試みたが、CIAに支援されたボリビア軍に捕縛された。1967年10月9日、ゲバラはボリビアのラ・イゲラ村でボリビア政府の命令により処刑された。39歳だった。
カストロはゲバラの死をラジオで国民に伝え、「ゲバラは最も純粋な革命家の一人だった」と讃えた。しかし「なぜゲバラをキューバに引き止めなかったのか」「ボリビア作戦に補給を送らなかったのか」という批判は今も残る。革命の盟友の関係が最後まで「連帯」だったのか「決裂」だったのか、史家の間でも評価は割れている。
ゲバラのTシャツが世界中に溢れる一方で、カストロはその死後も権力の座にい続けた。「革命は生き残ることと同義ではない」という路線と、「革命は現実政治で守り続けるものだ」という路線の分岐を、この二人は象徴している。
現在地:死後も「評価が真っ二つ」に割れた90歳
カストロは2008年に弟のラウル・カストロに権力を移譲し、2016年11月25日に90歳で死去した。遺言には「自分の名前・肖像を公共施設、広場、公園、道路などに使ってほしくない」と記されており、その言葉通り、キューバではカストロ像・カストロ通りは存在しない。
| 評価する側の根拠 | 批判する側の根拠 |
|---|---|
| 識字率ほぼ100%(革命前は約24%が非識字) | 49年間の一党独裁・反対派の弾圧・拷問 |
| 人口あたりの医師数が世界トップクラス(2016年時点で人口1,000人あたり約8.4人) | 経済的自由の欠如。亡命者数は累計50万〜100万人規模 |
| 超大国アメリカの包囲網の中で49年間体制を維持した政治的生存力 | プレス・フリーダム指数は世界最低水準。反体制メディアは存在しない |
| アフリカ諸国への医療支援・教育支援。南アのアパルトヘイト反対に明確に旗を立てた | ソ連援助の消滅後(1990年代)の「特別期間」では配給制で国民は飢えに近い状況に |
カストロ死去の際、トランプ次期大統領は「残忍な独裁者の死に全世界が喜ぶ」と発言し、カナダのトルドー首相は「並外れた指導者」と讃えた。プーチン大統領は「本物の友人を失った」と追悼した。同じ1人の死に対して、世界の反応がこれほど真っ二つに割れた事例はほかに多くない。
💀 カストロが示す「生き残り」の方程式
暗殺未遂638回、2度のアメリカ主導の転覆工作、ソ連崩壊による後ろ盾喪失——通常ならどれか一つで体制が崩れるような試練を、カストロは49年間かけて全部乗り越えた。
その「生き残り」の構造を要素分解すると、①「アメリカの脅威」を体制維持の正当化に変換し続けたこと、②軍・党・情報機関のすべてを自分の指揮下に置いたこと、③外部との接触を遮断することで国内世論を「情報統制された市場」で管理したこと、の3つに集約される。これはゴルバチョフが「情報を開放することで体制が崩壊した」構造と正反対の選択だ。
10人の米大統領より長生きした革命家の墓石には、キューバの法律により「フィデル」の2文字だけが刻まれる。本人がそれを望んだ。「偉大さを嫌った偉大な独裁者」という逆説がカストロの墓碑銘かもしれない。



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